朝、目が覚めて一瞬どこにいるのか分からなかった。
見慣れない天井、カラフルな壁。そうだ、ここはブルガスだ。
今まで泊まってきた宿はどこも似たような灰色の安っぽい壁と天井ばかりだった。
水色のカラフルなアパートで目覚めるのは、本当に新鮮だった。まだ夢の中にいるような感覚だ。
棚にはインスタントコーヒーと紅茶が置いてあった。オーナーが「好きに使っていいよ」と言ってくれていた。
ケトルでお湯を沸かしてコーヒーを淹れる。マグカップを両手で包んでひと口飲む。
今まで囚人のような生活をしていたんだな、とふと思ってしまった。
朝ごはんはケトルのお湯をそのまま使って昨日買ったカップラーメンに注いだ。
残りのキャベツとミニトマトにコーンを添えて、簡単な朝食の完成だ。
正直、もうここブルガスにいるだけで来てよかったと思っている。観光はどうでもよくなっていた。
バルコニーに出ると、空は薄暗く小雨が降っていた。
ブルガス滞在中はずっとこんな天気だったが、引きこもりがメインの僕には関係ない。
食事を終えて少し休んでから、外に出ることにした。
ウルトラライトダウンを羽織って外に出ると、もう4月だというのに肌寒い。
雨のせいで人通りも少なく、静まり返った石畳の通りにカモメだけが飛んでいた。
歩いていてまず目についたのが、街中のいたるところに貼られたオペラのポスターだ。
実はブルガスはオペラの街として知られている。
ブルガスには立派なオペラハウスが構えており、地域を代表する文化施設となっている。
ブルガリアはもともと音楽文化が根付いた国で、「ブルガリアン・ヴォイス」と呼ばれる独特のハーモニーを持つ合唱は世界的に有名だ。
オペラやバレエの水準も高く、ブルガリアのオペラ歌手は世界各地の一流歌劇場で活躍している。
日本からわざわざオペラの勉強に来る人もいるというから、オペラが好きな人にとってはブルガスは特別な街なのかもしれない。
街の壁やフェンスにはオペラやバレエのポスターがびっしりと貼られていた。
中でも少女の絵が描かれた公演ポスターが気に入った。
色使いが美しくて、思わず立ち止まって見入ってしまった。できれば日本に持って帰りたいくらいだ。
宝塚でオペラやミュージカルのポスターを見慣れている僕には、どこか懐かしい雰囲気もあった。
ヨーロッパはやはり音楽に関するイベントが多い。観光客のいない街を歩きながらこういう発見があるのが、クラ旅の醍醐味だと思っている。
しばらく歩いていると、マダムが突然話しかけてきた。
何を言っているのか全く分からない。ブルガリア語だろうか。しかも不気味な笑みを浮かべながら近づいてくる。
何かの勧誘なのか、単なる興味本位なのか。どちらにせよぞっとして、その場を足早に立ち去った。
オフシーズンのブルガスで観光客皆無の街を歩くアジア人は、かなり目立つだろう。
歩いているうちに温かいコーヒーが飲みたくなって、カフェに入った。
入店しても案内が来ない。端の席に座って「すみません」と呼んでみたが誰も来ない。
他に客もいるし、営業はしているようだ。
スタッフらしき若い女性と目が合った気がしたので手を挙げてみたが、彼女はふっと視線を変えてキッチンに入っていった。
カウンターの傍まで歩いて声をかけてみた。それでも誰も来ない。
アジア差別なのか、それとも偶然なのか。理由は分からないが、なんとなく気分が悪くなって店を出た。
これを最後に、ブルガスでは外食を一切しないと決めた。部屋に帰って自分で紅茶を淹れればいい。
昨日行ったスーパーに立ち寄ると、見切り品コーナーに掘り出し物があった。
パスタ、トマト缶、生卵。全部合わせても600円ほど。それと食パンとゴーダチーズ。これで十分だ。
部屋に帰ってさっそくパスタを茹でた。鍋に水を入れて火にかける。
ガスコンロがあるだけでこんなに豊かな気分になれるとは思わなかった。
グツグツと沸騰したお湯にパスタを入れて待つこと数分。茹で上がったパスタにトマト缶をそのままかけて完成だ。
料理とも呼べないシンプルさだが、温かい食事というのはそれだけで心に沁みる。
中東に出てからというもの、温かい食事をまともに食べていなかった。
フランスパンにチーズを挟んで食べる毎日だった。それがこうしてコンロで火を使い、湯気の立つパスタを食べられる。
弟には「素材をただ並べてある」と言われたが、今日のパスタはどうだろうか(笑)。少しは料理らしくなったはずだ。
食後にヨーグルトを食べた。ブルガリアのヨーグルトはやはり本場だけあってコクが違う。これだけで十分なデザートだ。
今日は休肝日だ。紅茶を淹れてノートパソコンを開き、ブログの記事を書き始めた。雨音がバルコニーから聞こえてくる。
誰かと少し話したい。ふとそんな気持ちが湧いてきた。
旅の孤独というのは、こういう何でもない午後にじわりとやってくる。
カッパドキアのドミトリーでは気まずさを感じていたのに、今は誰かの声が聞きたかった。
ブルガスの2日目は、静かに過ぎていった。

