バスを降りると、目の前にヨーロッパらしい景色が広がっていた。
ただし僕が知っている西欧とは少し違う。フランスやスペインの華やかさではなく、
もっと素朴で落ち着いた雰囲気だ。昔訪れたバルト三国に近い空気感とでも言えばいいか。北欧的などこか静けさのある景色が広がっている。
ここはブルガリア。日本人にはヨーグルトのイメージが強い国だが、実はそれ以上に面白い国だ。
東ヨーロッパのバルカン半島に位置し、面積は日本の約3分の1、人口は約715万人。
主要民族は南スラブ系のブルガリア人が約80パーセントで、トルコ系やロマの人々とともに暮らしている。
宗教はブルガリア正教が大多数だが、イスラム教を信仰するトルコ系住民も多い。
ヨーロッパに位置しながら長い間トルコの支配下にあったため、どことなくアジアの雰囲気が漂う。
現在でもトルコ系の移民が多く、モスクと教会が混在するなど異国情緒にあふれた独特の雰囲気がある。
イスタンブールからバスで来た僕にとっては、トルコとの繋がりをそこここに感じる国だった。
世界有数の温泉大国でもあり、日本に次ぐ世界第2位の温泉国と呼ばれている。
また香水などの原料となるバラのエッセンシャルオイルは、世界市場の約7割がブルガリアで生産されている。
ヨーグルトだけじゃない、知られざる魅力が詰まった国だ。
食文化も豊かで、ブルガリアを代表する「シレネ」という真っ白な塩水漬けチーズは毎日のように食卓に登り、
細かくおろしてサラダにたっぷりかける「ショプスカサラダ」は国民的料理だ。
主食はパンで、街のいたるところにパン屋があり、毎日パンを焼く家庭もあるほど。
そしてEU加盟国でありながらユーロは未導入で、自国通貨のレフを使用している。
物価はヨーロッパの中でも最安値クラスで、旅行者にとっては財布に優しい国だ。
貧乏旅の僕にとっては、これだけで十分な理由になる。
僕が降り立ったのは黒海沿岸の港町、ブルガスだ。
ブルガリアで4番目に大きな街でありながら、観光地というより工業都市の雰囲気が漂う、のんびりとした海辺の街だ。
街中には臨海公園や教会、博物館などがある。
少し足を延ばせばピンク色の塩湖や黒海で唯一の無人島なども楽しめるらしいが、徒歩で30分あれば一通り見て回れるコンパクトな規模だ。
入国審査の担当官が「何もないだろう」と首をかしげたのも納得できる。でも僕にとっては、それがむしろ好都合だった。
さて4日間、何をしようか——。
正直に言おう。ほとんど引きこもっていた(笑)。
バスを降りてすぐ、予約サイトで連絡先を交換していた宿のオーナーにメールを送った。
今回はアパート形式の宿で、普段オーナーは常駐していないらしく、到着時に待ち合わせる必要がある。するとすぐに返信が来た。
「バスターミナルにタクシー乗り場があるから、そこでタクシーを拾ってこの住所を見せれば分かると思う。
着いたら運転手に電話をかけてもらって」
丁寧な対応だ。ここまで付き合ってくれている読者なら、僕が次に何をするか分かるかもしれない。
そう、タクシー代がもったいない(笑)。
調べると6,000円はする。距離はわずか3キロだ。
さすがヨーロッパ、タクシー代まで高い。歩いていくことにした。
着いたらメールで連絡すればいい。
ちなみに僕の携帯は国際電話が使えず、旅では不便な場面もあったがどうにかなっていた。
出発前にひとつやっておくことがある。キャッシングだ。
ブルガリアはEU加盟国でありながらユーロは未導入で、レフという聞いたこともない通貨を使っている。
現金を少し持っておかないといけない。いくら両替しようか。
物価は安いと聞くから4,000円分、一日1,000円で暮らせばいい。
東南アジアの金銭感覚だが、行きたい観光地も特にないのでどうにかなるだろう。
ユーロなら次の国でも使えるが、レフはこの4日間しか使わない。余計な現金は持ちたくない。
ATMでいつものようにドキドキしながらキャッシングすると、無事にお金が出てきてカードも戻ってきた。よかった。
補足しておくと、バスターミナル周辺は昼間は至って普通だが夜になると治安が悪くなるらしい。
もっとも夜に出歩かない僕には関係ない話だが、夜間到着のケースもあるので街の治安は事前に調べておく必要がある。
海外では昼と夜で街の顔が全く変わることがある。
重いバッグを背負って歩き出した。
ブルガスは肌寒かった。街中のレストランの前にはたいまつが焚かれていて、その炎が石畳を照らしている。
まるで北欧の街を歩いているようだ。同時に、ヨーロッパまで遂に来たんだという実感が湧いてきた。旅も後半に入る。
4キロほど歩いて地図上の住所に着くと、そこは薬局だった。このビルの上の階だろうか。
薬局の店員に宿を聞いてみたが知らないという。住所は合っているようだが。
オーナーに「薬局の前にいます」とメールすると、少しして初老の男性が現れた。
「タクシー使わなかったの?どうして?」
お金がないとは言えないのでモゴモゴしていると、英語が話せないと勘違いされたようだ。違うんだ。
オーナーは建物の裏側の扉を鍵で開けた。薄暗い狭い通路に、小さなエレベーター。
秘密基地のようでなんだかカッコいい。移動しながら優しい英語でゆっくり説明してくれる。親切な人だ。
4階で降りるとアパートらしい扉があり、開けると広いワンルームが現れた。
ダイニングテーブル、キッチン、ベッド、冷蔵庫。もちろん個室だ。
3方向に広がるバルコニーからの景色は素晴らしく、部屋はとても清潔でオシャレに整えられている。一泊4,500円とは思えない。
「家具は好きに使っていいよ。料理したければしてもいいし。スーパーの場所も教えるね」
キッチンにはトースター、ガスコンロ、包丁、まな板、皿やコップ。グラスにはワインまで置いてある。
思わず顔がほころんだ。アパート型の宿に泊まるのは初めてだ。
イスタンブールではレタスを洗面台でちぎってフランスパンにチーズとハムを挟んで食べていた。
中東に出てからというもの外食は高くてできないし、部屋にキッチンもないから昼と夜はまともな食事ができていなかった。
ようやく火を使って自分でちゃんとした料理が作れる。それだけでワクワクしてきた。
オーナーは近くの安いスーパーや観光スポットを教えてくれて、最後にこう言い残して部屋を出て行った。
「治安は悪くないけど戸締りは気をつけてね。何かあればメールくれれば」
扉が閉まると、部屋に静寂が戻ってきた。
なんか1人暮らしみたいで新鮮だ。ブルガスではこの部屋での生活を満喫しよう。それでいい。それがいい。

