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花売り女と乙女の塔と、知らない集まりに紛れ込んだ午後

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この日はアジア側へ渡ることにした。

フェリーの方が風情はあるが、メトロの方が安い。迷わずメトロを選んだ。

ボスポラス海峡をメトロで潜り抜けるというのも、よく考えると相当すごいことだ。

ヨーロッパ大陸とアジア大陸が地下鉄でつながっている。世界でもここだけの体験を、200円でできてしまう。

メトロを降りて改札を出ると、数人の女性が近づいてきた。

満面の笑みで一輪の赤い花、カーネーションのような花を差し出しながら「ようこそイスタンブールへ」と話しかけてくる。

アジア側に来た喜びと、屈託のない笑顔に一瞬気が緩んだ。しかしすぐに思い直した。

タダほど怖いものはない。花を受け取らず足早に通り過ぎた。

振り返ると、次に改札から出てきた若い男性にも女性が近づいて花を差し出していた。

男性は何も考えずに受け取ってしまった。その瞬間、女性の表情が一変した。

「花を受け取ったんだから買ってよ。1,000円ね」

男性は慌てて花を返そうとするが、女性は受け取らない。

押し問答の末、男性は渋々お金を払っていた。なるほど、そういう商売か。

笑顔で近づいてくる女性ほど警戒しなければならない。ハニートラップとはよく言ったものだ。

気を引き締めて周囲を見渡した。


同じイスタンブールでも、ヨーロッパ側とは全然違う空気が流れていた。

ヨーロッパ側が銀座なら、こちらは下町だ。丘のように傾斜した街並みに住宅やレストラン、カフェが並んでいる。

人通りも少なく、落ち着いた雰囲気だ。屋台の値段もヨーロッパ側より明らかに安い。どちらかといえば僕好みの街だった。

湾に沿ってハイキングコースが整備されていて、地元の人たちがのんびり歩いている。

僕も乙女の塔を目指して湾沿いを歩くことにした。無数のフェリーが行き交うボスポラス海峡を眺めながらの散歩は気持ちよかった。

こういう時間が旅の中で一番好きかもしれない。目的地に向かっているようで、ただ歩いているだけのような、あの感覚だ。


しばらく歩くと、ボスポラス海峡の沖合にぽつんと浮かぶ小さな島が見えてきた。その上に建つのが乙女の塔だ。

乙女の塔にはいくつかの言い伝えがあるが、最も有名なのは王女と毒蛇の物語だ。

「王女が18歳の誕生日にヘビに噛まれて死ぬ」と占い師に警告された王様は、娘を守るためにボスポラス海峡の小島に塔を建てて彼女を閉じ込めた。

王様は定期的に娘のもとを訪れていたが、18歳の誕生日に果物を詰めたカゴをプレゼントとして持参した。

王女がカゴに手を入れた瞬間、果物の中に忍び込んでいた毒ヘビが噛みつき、予言通り娘は命を落としてしまった。

この王女の悲劇から「乙女の塔」と名付けられたといわれている。

ビザンツ時代からこの場所に灯台が建っており、オスマン帝国時代には見張り塔として使われていた。現在の塔の内部はレストランに改装されている。

なんとも切ない伝説だ。娘を守ろうとした父親の愛情が、皮肉にも予言を成就させてしまった。

どれだけ逃げようとしても運命には抗えないという話は、洋の東西を問わず語り継がれるものだ。

岸辺からその姿を眺めた。海峡の真ん中にひっそりと建つ白い塔は、伝説の悲しさとは裏腹に、青い空と海に映えて美しかった。

入場料を払って渡る気はなかったが、この距離から眺めるだけで十分だった。


その後は丘の方へ向かった。

傾斜のある石畳の路地を登っていくと、片田舎のような静かな街並みが広がっている。

ヨーロッパ側に比べて明らかに人が少ない。それが心地よかった。

路地沿いのカフェの看板にチャイ300円の文字が見えた。

そういえばイスタンブールに来てから店らしい店に一度も入っていなかった。迷わず入って、テラス席に腰を下ろした。

チャイを一口飲みながら石畳の路地を眺める。通り過ぎるおじさんに声をかけられたがトルコ語で何を言っているか分からない。

とりあえず「ハロー」と返すと笑顔で去っていった。困った時はハローかサンキュー、笑顔で返せばどうにかなる。

日本でも田舎に行くほど見知らぬ人が気軽に挨拶してくるが、海外でも同じだと思う。

都会は無関心、田舎は親切。どこの国も変わらない。


坂をのんびり歩いていると、小さなモスクのような建物の前に人が集まっていた。20人ほどだろうか。

ミサなのか葬式なのか、はたまた別の何かなのか。

宗教的な儀式というより冠婚葬祭の集まりのようにも見えるが、皆和気あいあいと陽気に話している。

なんとなく気になって、そのまま中に入ってしまった。

誰も僕を気にしない。知らない顔が混ざっていても不思議に思わないのか、それとも外国人だから仕方ないと思っているのか。

結局トルコ語で何も分からないまま小一時間その場にいて、そっと出てきた。日本でなら完全に不審者だったと思う(笑)。

でもこういう体験が旅の醍醐味だと思う。観光地でも名所でもない、地元の人たちの日常の空気をそのまま吸い込んだような感覚。

ガイドブックには絶対載っていない。


観光らしい観光は乙女の塔を眺めたくらいだったが、アジア側に来て正解だった。

ヨーロッパ側から海峡を渡ってくると、空気がアジアに戻ってくる感じがする。

街の匂い、人の距離感、路地の雰囲気。やっぱり僕はアジア人なんだなとあらためて思った。

イスタンブール最後の日、一番好きな顔の街でチャイを飲んで終わった。悪くない。

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