電車を降りて地上に出た瞬間、目に飛び込んできたのは落書きだった。
駅の壁、建物の外壁、シャッター、柵、電車の車体。見渡す限りあらゆる場所に色鮮やかなスプレーアートが描かれている。
アート寄りの洗練されたものもあれば、ただの悪書きとしか言いようのない文字の羅列もある。
カオスという言葉がこれほど似合う街並みもそうはない。
実はそもそも「グラフィティ」という単語自体、ギリシャ語の「graphi(書く)」を語源としており、
アテネはグラフィティ都市と言っていいほど落書きが多い街だ。
第二次大戦や1967年のクーデターの時代には自己表現や抵抗のツールとして使われてきた歴史がある。
そして2010年代のギリシャ経済危機を経て本格的に広まり、政府や警察への怒りをアートで表現するムーブメントとして街中に広がっていった。
つまり落書きだらけのアテネの街並みは、ギリシャの人々が経済危機の苦しさと怒りをぶつけた痕跡でもあるわけだ。
そう理解すると見え方は少し変わるが、治安が悪く見えるのは正直なところ事実だ。
日中は比較的安全だが夜遅くは男性の僕でも一人歩きは避けたいと感じた。
20年前に来た時はこんなイメージではなかった。思い出の中のアテネとはえらい違いだ。
駅から歩いてしばらく、お世話になるホテルを発見した。外壁はご多分に漏れず落書きだらけ。
どんな酷い宿なんだと覚悟を決めて入口の扉を開ける。
ところが中は想像とは全く違っていた。
カフェバーのようなオシャレな造りで、カウンターとテーブルが並ぶ広いスペースに10人ほどの若者がソファでくつろいでいる。
レストランというより大学のラウンジに近い雰囲気で、外観とのギャップがすごい。
本当にここが宿なのかと疑いながら受付に名前を告げると、20代くらいの女性が愛想よく対応してくれた。
1階はカフェ、2階はキッチンとフリースペース、3階から上が客室という造りだ。
部屋はカード式のセキュリティが導入されていて、日本のビジネスホテルのようにしっかりしている。
部屋のロッカーも暗証番号式なので共有スペースでも安心して荷物を保管できる。
4人部屋だが他の宿泊客は1人だけで、ほぼ個室のように使える。部屋も新しくカーテンもある。
シャワーとトイレも4人部屋用のものが別に設けられていて清潔だ。
ドミトリーで6,000円とアテネでは割高に感じたが、キッチンもあって自炊もできる。
スタッフは親切で街の情報を色々と教えてくれる。
結果的にこの宿はこの旅で泊まったドミトリーの中でもベスト3に入るくらい居心地が良かった。
初日にスーパーにも立ち寄った。レジのやり方が分からずモタモタしていると店員さんが笑顔で教えてくれた。
物価はトルコとほぼ同じくらいで日本より少し高いが、外食に比べると断然安い。
パン、野菜、チーズ、ハム、ヨーグルトはヨーロッパ全体を通して比較的安いので、
これらを上手く組み合わせて物価高を乗り切るしかない。
落書きだらけで治安もやや悪そうなアテネだが、人は温かい。
外観と中身のギャップ、それがアテネという街なのかもしれない。しばらくここに滞在しようと思う。

