3日目はいよいよヨーロッパ側のイスタンブールを歩き回る日だ。
宿からメトロを2回乗り換えると中心街に出られる。
イスタンブールのメトロは同じライン内なら一律約200円の均一料金なので、乗り換えをいかに少なくするかが節約の鍵になる。
地上では当然徒歩だ。トラムもバスも乗らない。
メインバッグは宿に置いてきたから、サブバッグには水だけ。この身軽さがあってこそできる作戦だ。
もし彼女と一緒にこの旅をしていたら、確実にフラれているだろう。
数百円を節約するために海外で必死になる男と付き合いたい女性は、世界中探してもまずいない(笑)。
スリ対策も万全だ。財布はズボンの内側、スマホは首からぶら下げて服の中に収納。移動中はスマホを取り出さない。
バッグには飲みかけのペットボトルだけ。奪われても痛くもかゆくもない。
そもそも2ヶ月着続けたユニクロの服はボロボロで、どこからどう見ても観光客には見えなかっただろう。
おかげで4ヶ月の旅で一度もスリに遭わなかった。我ながらやり方は正しかったと思う。
ひとつ誤算があった。トイレだ。
日本なら駅にも街中にも当たり前のようにトイレがある。
しかしイスタンブールの街を歩いていると、なかなか見当たらない。
レストランのトイレを借りるために何か注文するのも癪だし、屋台形式の安い店にはそもそもトイレがない。
有料の公共トイレも見当たらない。
困り果てて思いついたのが、モスクのトイレを借りることだった。
一般開放されているモスクには誰でも使えるトイレがある。これは使える。
イスタンブールにはモスクが街中に点在しているから、トイレに困ったらモスクを探せばいい。
これが僕なりに編み出した、イスタンブール・トイレ問題の解決策だ。
これだけ観光客がいるのに皆どうしているのか、今でも不思議に思う。
そのモスク巡りが、思いのほか楽しかった。
中心街のモスクは密集していて、歩いているだけで次々と視界に入ってくる。
無料で入れるモスクも多く、入場料を払わなくても十分すぎるほど見応えがある。
中でも圧巻だったのがファティモスクだ。
1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル征服の10年後に建設された歴史的なモスクで、
「ファティ」とはトルコ語で「征服者」を意味し、征服王メフメット2世の名を冠している。
トルコの歴史に詳しいわけではないが、外観を見上げた瞬間に息を飲んだ。
これだけで来た甲斐があったと思えた。外国人観光客はほとんどおらずトルコ人が多い、
どこかハードコアな雰囲気のモスクで、周辺にはディープなムスリム街が広がりトルコというよりアラブの国に迷い込んだような空気がある。
観光地化されていない分、リアルなイスタンブールの空気がここにはあった。
もうひとつ気に入ったのがラレリモスク、別名チューリップモスクだ。
規模は小さいが、喧騒から切り離されたような落ち着いた雰囲気が心地よかった。
観光客も少なく、ベンチに腰を下ろしてぼんやりしていると時間を忘れた。
ヨーロッパ側の中心街は、日本で言えば銀座のようなエリアだ。
ブランドショップのテナントが立ち並び、人が密集している。
田舎好きの僕には少し場違いな空気で、用事はなかった。
でもその喧騒の路地を一本入ると、急に生活感のある街並みになる。そのギャップがイスタンブールの面白さだと思った。
次の目的地はグランドバザールだ。
入った瞬間、その密度に圧倒された。日本で言えばアメ横のような雰囲気だが、規模が段違いだ。
4,000店以上の店が屋根付きの迷路のように連なっていて、絨毯、陶器、スパイス、金細工、土産物、食品となんでも揃う。
観光客と地元の人が入り混じってとにかく人が多い。お土産を探している人にはこれ以上ない場所だろう。
ただしスリには要注意だ。これだけ人が密集していれば、プロのスリにとっては絶好の狩場になる。
日本人観光客は特に狙われやすい。財布はズボンの内側、スマホは服の中。いつも通りの態勢で歩く。
こんな話を聞いたことがある。グランドバザールを訪れた男性観光客が店員に呼び込まれ、店内でチャイやお菓子をご馳走になった。
談笑しているうちにいつの間にか店主の仲間が集まってきて、気づけば囲まれていたという。
そして「この絨毯を20万円で買ってくれ。お茶もご馳走したんだからいいだろ?」と半ば強引に買わされた。
しかしその絨毯は20万円はおろか10万円の価値もない代物だったらしい。
海外では親切な人ほど危険だ。見知らぬ相手から話しかけてくる場合は、まず警戒して間違いない。
チャイをご馳走になった時点で、すでに罠の中に入っている。
僕はもともと物欲がないのでバザールで何かを買いたいとは思わなかったが、見て歩くだけでも十分楽しかった。
金の装飾品を扱う店も多い。ドバイでも感じたが、中東はゴールドに特別な価値を置く文化があるようだ。
金の装飾品は……正直、僕には少し下品に映ってしまうのだが、それは個人の感覚の問題だろう(笑)。
バザールを出ると石畳の坂道が続いていた。
アンタルヤの旧市街と似た雰囲気で、思わず顔がほころんだ。石畳の路地を歩きながら小さな店を覗いていく。
高すぎない土産物が並んでいて、見ているだけで楽しい。
トルコに限らずヨーロッパを旅していて一番楽しいのは、こういう石畳の路地をぶらぶら歩く時間かもしれない。
観光スポットをチェックリストのように回るより、よっぽど旅らしい。
石畳の坂を下りていくと、ガラタ橋が見えてきた。
橋の上に立った瞬間、思わず足が止まった。目の前に広がる景色が、あまりにも壮大だったからだ。
金角湾の水面に光が反射して、その向こうにモスクのドームとミナレットが連なっている。
遠くには金角湾メトロ橋、アジア側にはボスポラス橋も見える。
ヨーロッパとアジアが一つの視界に収まる。これほど不思議な景色が世界にあるだろうか。
これを見るためだけにイスタンブールへ来る人がいるのも納得だ。
橋の上でもうひとつ目を引いたのが、釣り人の数だ。橋の欄干に沿って、これでもかというほど釣り竿が並んでいる。
地元の人たちが肩を並べて黙々と糸を垂らしている光景は、壮大な景色とのギャップが面白くて思わず笑ってしまった。
一体何が釣れるのか。本当に釣れているのか。それすら謎だったが、あの異様な光景はガラタ橋の名物なのだろう。
橋の下は2層構造になっていてレストランが並んでいる。シーフードの香りが漂ってきた。本当に悩んだ。新鮮な魚介を食べたかった。
でも朝食のビュッフェをたらふく食べたばかりで空腹感はなかったし、これからヨーロッパへ渡る前に無駄な出費は控えたい。
泣く泣く通り過ぎた。あれは今でも少し後悔している。
橋を渡るとガラタ地区に入った。
石畳の坂道が続くこのエリアは、旧市街とはまた違う雰囲気がある。
旧市街がモスクと歴史の街なら、こちらはカフェや雑貨店が並ぶ、どこかおしゃれな下町といった趣だ。
坂の途中に古い建物が連なり、路地を入ると猫が日向ぼっこをしている。イスタンブールはとにかく猫が多い街だ。
そしてそのガラタ地区のシンボルがガラタ塔だ。14世紀にジェノヴァ人が建てた高さ約67mの石造りの塔で、
展望台からはイスタンブールの全景とボスポラス海峡が一望できるという。入場料は5,000円。
無論、入るわけがない。
そんな金があるなら、さっきのレストランでシーフード料理を腹いっぱい食べるわ(笑)
外から見上げるだけで十分だ。それでも周囲の街並みは美しく、ぶらぶら歩いているだけで時間を忘れた。
石畳の坂をのぼったり下りたりしながら、ただ歩く。これがイスタンブールの楽しみ方として一番自分に合っていた。
そろそろ帰ろう。
帰りのメトロの駅でポンデリングのような丸いパンが目に入った。1個80円。2つ購入した。夕食の足しにしよう。
宿の近くのスーパーで買い物をして、今日はゆっくり休もう。
ヨーロッパとアジアにまたがる唯一の都市、イスタンブール。ガラタ橋の上に立って、この街の途方もなさをあらためて実感した一日だった。

